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オーストリア代表
Stationen


Adriachem (81) Split (Gastspieler)
Vienna (1991)
St.Pvlten (1992)
Admira/Wacker (1993)
MSV Duisburg (1993)
Sturm Graz (1994 - 2002),
Nagoya Grampus Eight (2002.6-2003.5 )

FKAustria Wien(2003.6-2005.6.1)

LASK_Linz(2005.6ー

■イヴォ自身が語るキャリアについて■                            
イヴォ公式より翻訳:イヴォンヌ
>>クロアチアでのはじまり

そこで僕たちはちゃんとした場所なんてなかったから、友達と僕は通りでサッカーをした。最初は12歳のときアドリア(スプリット郊外)で始めた。ところでこの時僕は左のディフェンダーのポジションだった。この時はまだフォワードをやるには肉体的に弱すぎた。
アドリアでは、面白い話もある。
学校でちょっとした時間的な問題があって、父はサッカーをすることを禁止した。しかしぼくはいつも抜け目がなかったから、父には学校へ行くと言っておきながら、実際には試合に行った。
僕は茂みの中にサッカーシューズを隠しておいたから、父には気づかれなかったんだ。そのシーズン僕は35ゴールを決め、得点王になった。父は新聞で僕の写真を見て、もちろんこの話はどこかに吹き飛んだのさ。


>>それ以後のキャリア

スプリット:ハイデュクではヨーロッパ遠征のときゲストプレーヤーだった。

ヴィエナ:1991年僕のオーストリアについてからの最初のクラブだった。僕はそこで全くの無名であったが、テスト練習とテスト試合の後、雇われた。

ザンクト・ペルテン:ヴィエナでよい成績を残した後1992年にザンクトペルテンに細やかに気づかわれ迎えられた。フーベルトバウムガルトナー監督は、なんとしても僕をほしがった。そこでもまた18ゴール上げた。

アドミラ・ベッカー:アドミラはそのころ絶好調で、いつもUEFAカップで戦っていた。監督はディディ コンスタンティーニ氏。残念なことに試合にはほんの少しの観客しか来ないにもかかわらずそこでプレイすることはすばらしかった。

MSVデュイスブルグ:アドミラでのほんの半年間で、冬期休暇の間に僕はドイツへブンデスリーガクラブのMSVデュイスブルグに移籍した。しかしながらケガのため、本当にできることを示せなかった。

シュトゥルムグラーツ:シュトゥルムから1994年に良いオファーが来た。それ以外にイヴィツァ・オシム氏が監督になることを僕に言ってきた。
それによって決定的となった。良い決断だった。:シュトゥルムで2回のリーグチャンピオン、3回のオーストリアカップ優勝、3回の欧州チャンピオンリーグ出場ができた。

ナショナルチーム:オーストリアのナショナルチームでプレイできたことを僕はうれしく思っている。いずれにせよチームでプレイするためにクロアチア国籍を捨てて、オーストリア国籍を取得しなければならなかった。オーストリア国籍を取得する少し前に、クロアチアナショナルチームからもオファーが来ていた。

(今シーズン途中で代表を辞退することについて)だから僕はどうするべきか本当に長い時間よく考えなければならなかった。僕は長い時間日本にいるので残念ながらチームのためにプレイすることができない。(時差による)旅の疲れは単純に大きすぎる。僕が最良のコンディションでない時、何者も救うことはできない。

名古屋グランパスエイト(日本):ひとつの決定。これを僕は軽くしたわけではない。
しかし、僕は33歳だ。もう一度大きな挑戦をしたかった。Jリーグは魅力たっぷりだ。今、この1年の間もう一度(自分を)試している。

                                 制作:2003年3月頃
                               更新:2007年2月
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